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住所遍歴(Part3:沖縄編)

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[首里城から南西(那覇市街地方面)を拝むの図]
2002年夏、晴天の霹靂の如く沖縄移住が決まり、コンテナごと引っ越し。何度も移住を繰り返すうちに我が家も移住しやすい形になってきた。折り畳み式コンテナはその最たるもので、この他にも組み立て式の家具が多数幅を利かせている。・・・ってそんなにモノはないが。
で、当面の落ち着き先は某フェリーターミナルそばの潮の香りと排ガスの香り漂う川のほとりにある。道1つ隔てるとそこは繁華街で、夜になると客引きが群がってくる。競り市状態(笑)。で、逆の方向へ行くと国際通りがある。平日なのにこの賑わいはなんじゃいなこりゃたまげただす。夏場は観光客が多く、秋頃は修学旅行生が多い。最近の修学旅行はタクシーでの徘徊が流行らしく、学校名の札をつけたタクシーが列をなす。そうでないタクシーも負けずに列をなす。

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住所遍歴(Part2:東京編)

2001年春、大江戸のど真ん中、市ヶ谷駐屯地に移ることになった。で、最低限の荷物を単身パックに押し込み、ホンマモンの防衛庁市ヶ谷駐屯地から歩いて5分のところにある「市ヶ谷駐屯地」へ行ってみると、1駅の範囲内に靖国神社やら神楽坂やら日テレやら私立大といった何とも騒がしそうな所にあることが判明。今までと環境が全く違うもんだから、生きていけるのだろうかと心配していたが、次から次へと問題が・・・。まず水がまずい。やっぱりカルキ臭い。顔を洗うのもちょっと大変だった。都心のど真ん中だけあって騒音もなかなかももの。朝5時になる前から電車が走っている。道路は24時間車がひっきりなし。そして極めつけはお勝手。あるものといえば電気コンロのみ。試しにお湯を沸かそうとしてみたら沸かなかった・・・・。

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放送部(4)・四方山話

すべて「私の記憶が確かならば・・・・・・」の範囲であることをご了承願いたい m(_ _)m
『源氏名』
加入後すぐ新入部員に対して行われるのは、なにを隠そう新人研修ではなくて「源氏名」決めである。
男女を問わず、全員に「源氏名」が与えられる。しかし、それが絶対というわけでもなく、呼びやすいものに落ち着くまで、半年ぐらいの間適当に変化する。私の今の名前もそうして決まったものだったりする。
『宝塚伝説』
どういうわけだか、歴代の女子部員には少なくとも2~3人宝塚のファンがいるらしく、「宝塚同好会」が放送部の中にできていたりする。わりかし暇なときにも、話題はすぐ宝塚の方向へ。中には本物をまねて歌い出したり踊り出したりする人たちもいたと言う話だ

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放送部(3)・詳細-2

すべて「私の記憶が確かならば・・・・・・」の範囲であることをご了承願いたい m(_ _)m
年間すけじゅーる
『4月』
新入生歓迎会/部門分け/「源氏名」決め
『5月』
新人研修??? NHKのコンテスト出品作の製作開始
『6月』
NHKの放送コンテスト予選、決勝本番
『7月』
・東海ラジオ・千代田の放送コンテストに向けた制作開始
・夏の大掃除
『8月』
・夏合宿(定宿は黒姫のペンション)
『9月』
・東海ラジオ・千代田の放送コンテスト本番

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放送部(2)・詳細-1

すべて「私の記憶が確かならば・・・・・・」の範囲であることをご了承願いたい
m(_ _)m
『3つの放送部???』
その歴史は結構浅いようだが、少なくとも3つの名前があるらしい。
まず一つ目は「放送同好会」。できあがったのが1980年代前半らしい。当時の有志が方々を駆け回って手弁当で設立した「同好会」だったとか。往時を忍ばせる、部への昇格を願う千羽鶴を私はみたことがある。
そこから、正式に「部」へと昇格し、オーソドックスに “Toyama-highscool Broadcasting Club”→ “TBC” なる略称がついた。ひょっとしたら古い機材の一部には「TBC」なる文字が残っているかもしれない。そこからいつの間にやら “TSB”と変化した。当時の先輩から聞いた話では”Toyama Senior-highscool Broadcasting-club”の略らしい。これが現在の略称だとか。

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住所遍歴(Part1:信州編)

私は生まれは富山らしいが、その直後に親父殿の転勤で大阪の枚方(半分京都という話もある)に引っ越した。香里ヶ丘というところにある某社社宅に住んでいたらしい。最寄り駅は京阪本線の「枚方公園」「光善寺」だが、あんまり電車が止まらないらしく、当時親父殿は少し歩いて「香里園」駅まで行っていたとかいないとか。
休日にはよく大阪市内や万博公園などへ一家でお出かけにしたが、そこで度々迷子になる。しかし抜群の(?)帰巣本能のみで保育所にはいる頃に富山の土を踏むまでの幼年期を生き延びた。

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生家はあばら屋

もともと、「館」はあばら屋・ぼろ家のことを指していたらしい。
私の生家は富山県中新川郡立山町の山すそにある。確か、学術的には河岸段丘とか言ったかなぁ、という場所にある。近所の崖っぷちからは砂利が顔をのぞかせている。太古の昔は、常願寺川という大きな川の河原だったそうだ。
現在その常願寺川は、車で15分位の、生家から10メートルも下の位置を流れている。明治初期に来日したオランダ人技師、デ・レーケを「これは川ではない。滝だ!」と言わしめたその川は、洪水を起こす度に大地を削り、川筋を変えている。おかげで生家からはだいぶ離れていってしまわれた。

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学歴

小学校は地元立山町にある、かなりの小規模校で、かろうじて複式学級化を免れているくらい。入学当初は非常に年季の入った校舎で、歩く度に床がきゅうきゅう鳴る。
トイレもくみ取り式で、おばけが出るという話もあった。また、隣接する保育所と共同で使っていたので、便器がやけに小さく、よくお子さまがいろんなものを詰まらせていた。そんな校舎も、4年の時に近くの田んぼをつぶした土地に建て替えられた。
新校舎は「ズームイン朝」が取材にくるほど豪勢なもので、蛇口という蛇口は足踏み式。吹き抜けの部屋もあれば、プラネタリウムや展望台まである。

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信濃の国

おことわり:「郷に入りては郷に従え」に従い、ここでは「長野県」を「信濃の国」と表記してあります(笑)。
私は生まれてから高校を出るまでを富山で過ごし、現在は信濃の国、善光寺平に住まいを置いている。長野県長野市ともいうらしい。
信濃の国と言えば「善光寺さん」を外せまい。牛にひかれて善光寺参り、などと古くから言われ、全国から人が集まっていたそうで、地元の人たちにも年輩の方を中心に大変親しまれている。そのため人は善光寺のことを「善光寺さん」と呼んでいる。ここには「昼間にカップルが行くと必ず別れる」という、まことしやかに伝えられる話があるので、相当強力なご本尊様がいるに違ぇねぇ。ただし秘仏(非公開の仏様)なので、私は見たことがない。

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金沢県にある富山県中新川郡立山町

実家は富山県中新川郡立山町の山すそにある。
首都圏・関西・名古屋からほとんど同じ距離にあり、所要時間もほぼ同じ。しかし、距離的に近いはずの長野へ列車で行こうとすると、ことのほか時間がかかる。
立山町は、知る人ぞ知る「立山黒部アルペンルート」の西の玄関口(東の入り口は信州大町)。常願寺川(じょうがんじがわ)という、滝のような川にそって、電車やバスなどでスキー場をかき分けながら山奥へ行くと、アルペンルートの入り口にくる。さらにゆくと、落差だけは日本一の称名の滝(しょうみょうのたき)がある。

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