学歴

小学校は地元立山町にある、かなりの小規模校で、かろうじて複式学級化を免れているくらい。入学当初は非常に年季の入った校舎で、歩く度に床がきゅうきゅう鳴る。
トイレもくみ取り式で、おばけが出るという話もあった。また、隣接する保育所と共同で使っていたので、便器がやけに小さく、よくお子さまがいろんなものを詰まらせていた。そんな校舎も、4年の時に近くの田んぼをつぶした土地に建て替えられた。
新校舎は「ズームイン朝」が取材にくるほど豪勢なもので、蛇口という蛇口は足踏み式。吹き抜けの部屋もあれば、プラネタリウムや展望台まである。


校舎のまわりにはな~んにもないので、遠く日本海までも見える。ところがプラネタリウムと展望台は普段立入禁止になっている。しかし遮るものは小さいついたてだけなので、校舎内に入れば簡単に忍び込める。どういうわけか「窯」もある。この近くで「越中瀬戸焼」という焼き物をやっていることによるそうだ。
しか~し、いっくら校舎が立派でも、そこにいる教員がしっかりしていないと、ろくなもんじゃあない。
私が在籍した当時は、たしかバブルのまっただ中だったろうか。金満の親御さんたちや、自己顕示欲旺盛なごく一部の教員が子供をまくし立てて、「やらせソフトボール」なんてことを大々的に行っていた。全国大会の常連となるくらいの勢いがあったが、その陰で再起不能寸前の重傷を負って捨てられていく子供もかなりの数に上る。
この時代に教員にたてつくことを覚える。特に6年の時の担任は最悪で、えこひいきが激しい。ということで私は当然のごとく問題児リスト(ブラックリスト)に入ったのだが、そこら辺の情報をいたずら半分でばらしたら、その担任は保護者会で干されたとか。う~ん、我輩も悪よのう。
中学校もかなりの小規模校で、統合(というか、吸収ですな)の話もあったくらい。建っていた場所も、なんと崖っぷち。ところが交通機関が整っていないために統合を免れ、結局高校へ上がるまでクラス替えを経験したことがない。
当時この学校には東大へ楽々入っていく奴がいたので、ガリ勉しなくてもトップにはなれないようになっていた。その後の話では、そいつは東大へ本当に行ったとか。いや、行かされたのかな?
ちなみに小学校で覚えた「教員にたてつく難癖」は中3のころになんとか改善されたようだ。教室に「ばいきんまん」のぬいぐるみを常備する、変わった担任の影響らしい。目には目を、歯には歯を、変人には変人を・・・・なのだろうか?
このときに既に放送のあぜ道に足をつっこんでいたようで、生徒会長選挙の際には、政見放送のまねごとなどをやらかしていた。お仕事と称してやっぱり放送室内のテレビを見てこっそりくつろいでいたりした。体育館のワイヤレスマイクのシステムをあれこれいじくったりしたこともある。そのせいか、高校に入ると迷わず放送部に直行した。
高校は「富山の御三家」と呼ばれているらしいところの1つ。
在校当時は放送部でアナウンサーのようなことをやっていた。(詳細は、それぞれのネタのページでどうぞ)。このころ親父のお下がりのワープロを使うようになり、キーの配列を覚える。
その後信濃国にある某大学に移る。入学当初から寮住まい。バカ騒ぎは日常茶飯事で、寮内は不夜城といったところ。
2年になって、本格的にコンピュータに触れ始めたのだが、最初にさわったのが学科の端末室にある「わぁくすてぇしょん」だった。ワープロ代わりに使っていたっけなあ。いろいろ変な落書きをしながら、LaTeXや各種コマンド・ちょいとした環境設定などを覚えていった。そのあとMacにさわるようになり、PC/AT機を使うようになったのは4年になってからだ。
一方の本業は携帯電話の基礎技術をネタに研究中、ということになっていた。いや~難しかった。しかし4+2年かかったけど卒業できたからまあいいか(^_^;;
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Rec:1999-1-19/Mix:1999-1-20/Re-mix:2001-9-2