泥だらけのエピローグ

どれだけ書けばいい? 読む人はいるのか?
…とは思いつつも出来事があると声に出すより文字にしてしまう習性が定着している今日この頃。当初の予定では4回位のネタで収まる予定だったが、あろうことか過去の出来事や未来に起こる事になっているネタが時間の流れを越えてちゃんぷるーになってもうた。
ネタのみならず記憶のカラクリ機構まで暴発気味の末に本来予定していた主役が霞んでいるような気もする。行き先を筆に聞くと恐ろしいことになるのか? 分かっているのに気分は揺らぐ。


(注:ちゃんぷるー=ごちゃまぜ、の意)
少なくとも一つの出来事から派生したネタのまとまりとしてはこれまで最大クラスかなぁ。それだけきっかけとなった出来事が衝撃的だったか、積み重なってきた物が多かったかのどちらかだろうか。なに、両方?
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この所続いていた戸惑い。現実はそこにある。記憶もしっかりと残っていた。
よくもこれだけ記憶していたものだと驚きを通り越して呆れている。
脳内の血管が沸騰しかけた素敵な事態。一時期気が狂いそうにもなったが、記憶と現実は互いに相容れないとばかり思っていたが、いつか振り払わないといけないとばかり思っていたが、なんのことはない。無理に無理する必要もない。これからも普通に突っ走っていくのみ。落ち着く場所は必ずどこかにあるし、いずれ必ず血となり肉となりゲップとなり。
途中で壁の向こうの泥んこプールに突っ込んでもそれはそれで笑えるからいいじゃないですか。
出来たネタはパーッとばらまけ(こらこら)
武勇伝に値する行為が出てこなければもう大人、というネタもあるが、ネタが次々と湧いてでてくるあたりまだまだガキやな。大人になれずじまいで不良中年になっていたりして。不良中年というのは妙にいい響きがするけど。
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一通り吐き出してみて、現在ここで繰り広げられているネタは生きているからこそのネタであることに改めて気付かされる。
生きているからこそ笑えるネタ。生きているからこそ拝めるネタ。命あっての物種。
幸運に感謝。周囲の皆様に感謝。
そんなネタを肴に笑える機会もいつか来るかな。なければ何ぞ企画するまでか。
しかしあれだけ書いたにもかかわらずネタは更に出てくるというか、最近聞いた話なのだが沖縄スタイルの挙式というのはこれまで2度ばっかし見てきたものと大きく異なるという話。
出席者は軽く400人位が普通だとか、企画運営は新婚夫婦の友人たちが取り仕切るだとか、救急車の手配が必須だとか「カチャーシー」っつう踊りを全員で踊り狂うだとか、半値八掛け2割引でもネタが沢山眠っていそうな予感がする。特に「カチャーシー」については沖縄の人なら誰でも踊れるとかで、成人式の時には新成人と市長殿が一緒に踊り狂う様子がニュースで伝えられていた。
是非とも取材はしてみたいがそんな機会があるのかどうかは定かではない、というのはお約束か。
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そんな感じで次から次へと集まるネタを書くだけ書いてできあがった形になった雑誌・情報誌の類の後方部分には決まって「編集後記」という欄が用意されている。あとがきとは趣を異にし、制作スタッフの日常やら近況やら腹の内やらが勝手気ままに短く綴ってあるのがお約束らしい。以前私が顔を出していた某情報誌の編集スタッフは皆、編集後記に何を書くかを迷うことはなかった記憶している。むしろそこだけ紙面で遊んでいたともいえるか。
毎日が編集後記なのに、肝心のネタ本体は何処へ行ったのかという向きもあるが。
この先登場が予想できそうなネタだけでも結構な数になる。ボヤボヤしていると拝み損なっちまいますぜ。そこにあるのは夢じゃねぇ。
ドアをぶち破り、出来事の真っ只中をその耳で聞いて、その眼でみて、その足で実況生中継なぞしてこの瞬間を楽しみつつ適当に暴れてやりましょう。
…そして残るはネタの山。はい~っと。