富山の「御三家」

私の通っていた高校は、金沢県の片隅・富山市内にあって、昔から「御三家」と呼ばれる由緒だけは正しい3つの高校の一つで(同じ市内にもう一校、もう一つは高岡にある)、100年以上の歴史がある。著名な方々を出しているらしいが、その中には少なくともノーベル化学賞受賞者はいない(2002年10月末現在)。なお、お受験競争が熾烈を極める現在では、10~15年ほど前に新設された「新御三家」に押されまくっているという話もある。
校舎は市街地の南の太郎丸というところにあり、周囲には木々がうっそうと茂っていて「太郎丸の森」などというように付近の人は呼んでいるとか。昭和47年に旧校舎が丸焼けになるまでは、もっと木が茂っていたという記録もある。


そんな森の中には、上空から見ると校舎らしからぬ形をした校舎本体のほか、プールをつぶしたその上にたてられた体育館や、年季の入った売店の建物、これまた年期の入った食堂などが建っていた。しかし、これら年季の入った建物たちもつい最近取り壊しになり、江戸などで一旗揚げた同窓生がぽーんと置いていった新しい建物に入れ替わったと聞く。
敷地内には、昔の卒業生がぽーんと置いていった建物がいくらかあるのだが、その中に「百周年記念館」なるものがある。その中に茶室らしきものがあるのだが、年に1回ある文化祭では茶会が催されている。詳しい作法などは知らねぇーが、毎回1~2回は足を運んでちょいと一服。などということをしていた。
普段は放送部に籍を置き、冷暖房完備(放送機材保護のため)の放送室をたまり場にしてアナウンサーらしきことをやっていたのだが(詳しくは「放送部」のページでどぉぞ)、学校へ通うまでが大変だった。
毎朝電車を乗り継いで登校していたのだが、そのメインルートは図を見ての通り、2つある。ところが、ちょうど環状になった2つのルートとは別にもう一つルートがある。自転車でゆくルートは通称「立山通り」といい、大昔富山県内で国体が行われた際に、昭和天皇御一家がお通りするためにわざわざあつらえたといういわく付きの道である。
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この道路は現在通勤(痛勤)ルートの一つになっており、毎朝抜けるまでに30分以上かかる渋滞ができている。そんな渋滞を後目に自転車を軽くすっ飛ばしながらゆくと、どういうわけだか電車で行くよりも20分近く早く学校に着く。この話を周囲にすると、皆目を丸くする。結構な数の自転車に抜かれているのだが、それでも相当なスピードで自転車をこいでいることになるらしい。
雨や雪の時以外はよくこのようにして通ったのだが、ある時途中の橋でいつものように渋滞の脇をすり抜けながら走っていったら、学校に着いてから当時の担任に呼び出され、大目玉を食らってしまった。
その日の朝、すり抜けていった渋滞の列の中に、なんと担任の車があったのだ。
このようなことをやりながら、勉強もそこそこに高校時代は過ぎていった。まあそんなところか。
Rec:1999-1-13/Mix:1999-1-14
私の通っていた高校のことをもっともっと知りたいという酔狂な方は、後輩たちが開いているホームページ( http://www.tomikou.net/ )をご覧くださいませ。