放送部(1)

『前置き』
現在の私に多大な影響を与えたもののひとつに、TSB(Toyama Senior high-school Broadcasting club)の存在がある。信州へ来て、TSBというホンマモンのテレビ局があるのを知って少々驚いたが。「テレビ信州」だったか。
小・中学校では必ず(?)と言っていいほど放送委員をつとめていた。このころは技術スタッフとして放送機材の操作を主にやっていた。
小学校時代はごく普通だったが、中学時代にはお掃除の時にいつもかけているBGMに1曲勝手に付け足したり(徹底した証拠隠滅工作により、気づいた人はほとんどいなかった)、ワイヤレスマイクのポータブルアンプと体育館に備え付けのアンテナをつなげたり(これはお目玉を喰らった)など結構いたずらっぽいことをやっていた。


そういえば、生徒会長選挙の時に、政見放送のようなことをやっていたりしたなぁ。放送一直線。
『当時やっていたこと』
時は流れ、県内では老舗の類に入る某高校に進んだのだが、今までが今までだったもんだから迷わず放送部に入り、初めてアナウンサーをやる。いや、懲りずにといったほうが正しいかも。男子部員は結構いたが、アナウンサーをやっていたのは同期の中では私だけらしい。
仕事(活動に非ず)内容は、体育大会などの行事での場内アナウンスや昼時の番組のDJ(もどき)などが中心だったが、ラジオドラマ(放送コンテストに出品する)の声優もやっていた。私の主な役どころは学校の先生などの「おっさん役」が多かった。
当時必死こいて勉強した「放送原稿の組み立て方」は、現在の数々の雑文の文体に大きな影響を与えている。
『お掃除』
当時は「お掃除の仕切り屋」もやっていた。実はたまり場になっていた放送室にポータブルテレビがあったのだが、それで番組を見ている最中に先生方が見回りにくることがある。が、足音ですぐにわかるので頃合いを見計らって掃除機のスイッチを入れ、お掃除をやっていたりしたのだのだ。「感心、感心」の言葉と共に先生が職員室へ戻っていくと、テレビ視聴再開。しかしこのころには番組のやま場はすぎていたりする。
「お掃除の仕切り屋」とは別に「掃除部長」なるポストがあったのだが、私は「掃除部長」ではなくごく普通のアナウンサーだった。お掃除は全員で、という先輩の方針でだったのだが、「掃除部長」は掃除熱心な歴代男子部員が勤めていたらしい。例外は私の代だけだったようだ。
『その他諸々』
「藤P」という名前はこのころに確立した。私の記憶が確かならば、名付け親(笑)は、大の「ヅカファン」だった先輩コンビ・・・・だったはずだ。「源氏名」とかいってはしゃいでいたような記憶がある。・・・・・「源氏名」ってあのぉ~、夜の世界のみなさんみたいな方々のニックネーム・・・・ぢゃなかったっスかぁ~?
今現在も周囲には変わった人たちがたくさんいるけど、当時も「ものすごい方々」が周囲にいた。たとえば・・・
・中学のころから堂々と浅草フランス座へ通ふ強者
・野菜の入ったケーキをサクサクと作ってしまうコック
・1人称が「俺様」の女性
・(ピー)とか(ガー)とか、とにかく筆舌に絶する先輩
・「アル中」は「アルフィー中毒」であると言い張る熱狂的アルフィーファン
な人たちがいて、そんな人たちと受験による引退までの間、懲りずに勤上げ、楽しい日々を過ごせました・・・・とさ。伝統校って、ちょっと変わった人たちがあつまりやすいんだねぇ。不思議と。。
現在どうなっているかは、後輩が立ち上げたホームページにて見てみるのもいいかも。( http://www.geocities.co.jp/HiTeens/5957/ )
Rec/Mix:1998-10-12(1998-11-11一部加筆)